「誰のための育児なんだろう」

朝の支度をして、
忘れ物がないように気を配って、
時間に遅れないように動いて、
今日もちゃんと回しているはずなのに、
なぜか苦しさだけが残ることがあります。

何か大きく崩れたわけでもないのに、
どこか空っぽな感じだけが残る。

そんなふうに感じることがあります。

やることはやっている。
必要なことも、たぶん抜けていない。

それなのに、
ふとしたときに、
これは何のためにしているのだろうと思う瞬間があります。

子どものためにやっているはずなのに、
気持ちだけが、少し置いていかれているような感じです。

もともとは、
安心して過ごしてほしいとか、
困らないようにしたいとか、
できるだけ穏やかでいたいとか、
そういうところから始まっていたはずのことでした。

ちゃんと食べられるように。
気持ちよく眠れるように。
不安が少しでも少なくなるように。

ひとつひとつは、
目の前の子どもに向いていたものだったのだと思います。


続けることが先になっていくとき

でも、毎日続けているうちに、
少しずつ、見ている先が変わっていくことがあります。

ちゃんとすること自体が大事になっていく。
回すこと自体が優先になっていく。
崩さないことが、いちばんの目的になっていく。

最初に何を守りたかったのかよりも、
今日を崩さず終えることのほうが、
ずっと切実になっていくことがあります。

それはたぶん、
何かを忘れたからではなくて、
忘れている余裕がないほど、
ずっと気を張ってきたからなのだと思います。

暮らしは、止まりません。
子どもの一日は、こちらの余裕とは関係なく進んでいきます。

熱が出る日もあるし、
機嫌が大きく揺れる日もあるし、
理由の分からないまま泣き続ける時間もあります。

その中で、
何とか保ちながら進もうとすると、
気持ちより先に、
段取りや手順のほうが前に出てくることがあります。

今は何を優先するか。
どこを削るか。
何を崩さずに済ませるか。

そうやって選び続けるうちに、
「子どものため」という最初の言葉 が、
少し遠く感じられることがあります。

ただ回しているだけのように感じたり、
こなしているだけのように思えたり、
自分が何を大事にしているのか、
うまく触れられなくなることもあります。

でもそれは、
冷たくなったからではないのだと思います。

どうでもよくなったわけでも、
愛情が薄れたわけでもない。

むしろ逆で、
崩さないように、
困らせないように、
何とか守ろうとしてきた時間が長かったからこそ、
目的より先に、
続けるための形のほうが強く残ることがあるのだと思います。

本当は何のためだったのか。
何を守りたかったのか。

そういうことが、
すぐには言い直せない日もあります。

きれいな言葉に戻せないまま、
ただ今日を終えることで精一杯な日もあります。

誰のための育児なのか、
分からなくなる瞬間がある。

それは、
間違った方向に来てしまった印ではなくて、
分からなくなるくらい、
ずっと必死に守ってきたということなのかもしれません。

だから、
すぐに答えを言い直さなくてもいいのだと思います。

何のためだったのかを、
きれいに取り戻せないままの時間があってもいい。

ただ、
分からなくなる瞬間があることだけ、
そのまま置いておけたらと思います。

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