お迎えの帰り道。
子どもがふと、
「今日、泣いちゃった」と話します。
「そうだったの。どうしたの?」
聞いてみると、
「おもちゃ」とひと言。
「おもちゃで遊びたかったの?」
子どもはうなずきます。
けれど、
そのあとも話を聞いていると、
そういうことでもないような気がする。
「使ってたの?」
もう一度聞くと、
今度も「うん」と答える。
遊びたかったのか。
使っている途中だったのか。
話を聞いているうちに、
どんなことがあったのか、
分からなくなることがあります。
そのうち子どもは、
道の向こうに見えた犬を指さして、
「わんわん、いた」と笑っている。
こちらには、
さっきの話が少し残っています。
何があって、
どんな気持ちで泣いていたのだろう。
今は笑っているけれど、
悲しかったのだろうか。
悔しかったのだろうか。
せっかく話してくれたのに、
うまく分かってあげられなかった。
そんな思いが残ることがあります。
少しずつ、
言葉でやりとりができるようになってきた。
「これがいい」
「もう一回」
「いやだった」
子どもの言葉から、
気持ちが分かる場面も増えてきた。
何を伝えたいのか分かったときには、
前より少し、
子どもの気持ちに近づけたように感じる。
だからこそ、
話してくれているのに分からないと、
もどかしくなるのかもしれません。
もう少し聞けば、
分かるだろうか。
違う聞き方なら、
話せるだろうか。
ただ、
何があったのかを知りたいだけではなく、
そのときの気持ちを、
知らないままにしたくない。
嫌だったなら、
その嫌だった気持ちを、
大切にしたい。
けれど、
尋ねる言葉を重ねるほど、
自分が思い浮かべた出来事に、
子どもの答えを当てはめているような気もしてくる。
子どもが伝えたかったことは、
本当にこれだったのだろうか。
分かりたいと思って聞いていたのに、
かえって分からなくなることもあります。
言葉でやりとりができることと、
感じたことをすべて言葉にできることには、
まだ隔たりがあるのかもしれません。
出来事の一部分だけが、
言葉になっていることもある。
こちらが尋ねたことと、
子どもが思い浮かべていることが、
少しずれていることもある。
子ども自身も、
何が嫌だったのか、
どうして泣いたのか、
うまく言い表せないことがあるのだと思います。
口にした言葉は聞こえていても、
その言葉に込めたものまで、
同じように受け取れるとは限りません。
近くにいても、同じではない
毎日一緒に過ごしていると、
言葉がなくても分かることがあります。
眠くなるときのしぐさ。
うれしいときの表情。
抱っこしてほしいときに伸ばす手。
そうして知ってきた姿がある一方で、
近くにいても、
分からない気持ちがあります。
同じものを見ていても、
心に留まるところは違う。
こちらが気にしなかったことを、
子どもは気にしているかもしれない。
こちらが悲しかったのだろうと思う場面で、
子どもは別のことを感じていたのかもしれない。
親子であっても、
ひとつの気持ちを共有しているわけではなく、
それぞれに感じていることがあります。
そう考えても、
分かってあげたかったという思いが、
すぐに消えるわけではありません。
話してくれた言葉を思い返して、
何を伝えたかったのだろうと
考えることもあります。
ただ、
気持ちをつかみきれなかったことと、
その気持ちを大切に思っていないことは、
同じではないのだと思います。
あのとき、
どんな気持ちだったのだろう。
あとから分かることもあれば、
はっきりしないままのこともある。
帰り道、
子どもはまた別の話を始めている。
分からなかったことを、
心のどこかに残しながら。
今日も一緒に、
家へ帰っていきます。

コメント