できるはずなのに、できない日がある

子どもと一緒に、
食卓についているとき。

気づくと、
子どもの手が止まっています。

お皿には、
まだご飯が残っている。

「食べないの?」

声をかけても、
なかなか進まない。

けれど、
スプーンですくって口元へ運ぶと、
口を開けて食べる。

このあいだは、
自分で食べていたのに。

今日は、
食べさせてほしいのだろうか。

もう少し自分で食べてくれたら、
こちらもご飯を食べられるのに。

そんなことを思いながら、
次のひと口をすくうことがあります。

少しずつ、
自分で食べるようになってきた。

こぼすことはあっても、
自分でスプーンを持ち、
口へ運ぶ姿が増えていた。

そのあいだに、
自分も一緒に食事ができる日が出てきた。

子どもの変化がうれしくて、
少し手が離れたようにも感じていた。

だから今日も、
同じように食べるだろうと思っていた。

けれど、
今日はひと口ずつ食べさせている。

自分のお皿には、
まだ食べかけのご飯が残っている。

前はできたのに。

そう思うと、
今、手を貸していることが、
少し前に戻ったように感じられることがあります。

自分で食べられなくなったわけでは、
なさそうに見える。

それでも、
こちらが手を止めると、
子どもの食事も止まってしまう。

できるのか、
できないのか。

目の前の姿を、
どちらとも言い切れないことがあります。

「できる」の中にある違い

自分でひと口食べられることと、
その食事を自分で食べ進められることは、
いつも同じではありません。

はじめは自分で食べていても、
途中から手が止まる。

昨日はほとんど手を貸さなかったのに、
今日は何度もスプーンを持つことになる。

「できるようになった」と感じたあとにも、
そうした違いが見えることがあります。

食べ物によって、
すくいやすさが違うこと。

まだ慣れない動きを、
何度も繰り返していること。

食事の途中で疲れてきたり、
ほかのものへ気持ちが向いたりすること。

同じ食卓で、
同じように食べているつもりでも、
子どもにとっての進めやすさは、
毎回同じとは限りません。

一度できたことを、
繰り返しできるようになる途中にいることもあります。

ただ、
今日、手が止まっている理由を、
その場ではっきり説明できるとは限りません。

何かが難しかったのか。
今日は食べさせてほしかったのか。

目の前の姿だけでは、
分からないこともあります。

けれど、
理由が分からなくても、
このあいだは自分で食べていたことと、
今日は手が必要なことは、
どちらも目の前にあります。

大人の側には、
自分でできた姿が残っています。

あのときは、
手を貸さずにできていた。

もうここまでは、
できるようになったと思っていた。

その記憶があるからこそ、
今日もできるだろうと思う。

できるようになったことへのうれしさと、
これからは少し楽になるかもしれないという気持ちが、
一緒にあることもあります。

だから、
また手が必要になったとき、
戸惑いやため息が出ることがあります。

子どもの育ちに揺れがあるとしても、
その日の食事が長くなることや、
自分のご飯が冷めていくことは、
その場に残っています。

同じことが続けば、
どうしたのだろうと気にもなる。

できる日とできない日があると知っていても、
心配がなくなるわけではありません。

ただ、
今日ひとりで食べ進められなかったからといって、
これまでできていたことが、
なくなったとは限りません。

このあいだは、
自分で食べていた。

今日は、
またひと口、
スプーンを口元へ運んでいる。

できるようになったと思ったあとにも、
こうして手を貸す時間があるのかもしれません。

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