誰にも何も言われていないのに、
自分で自分を責めてしまうことがあります。
少し休んでいるだけなのに、
どこかで「これでいいのか」と見張られているような気がしたり。
ちゃんとできているか、足りていないところはないか、
自分で自分を確かめ続けてしまったり。
本当は、誰かに何かを言われたわけではないのに、
その目だけは、ずっとこちらを見ているように感じることがあります。
自分に向けているその目は、
あまりにも自然にそこにあるので、
それが“自分そのもの”のように思えてしまうことがあります。
でも、
その目は、最初からひとつの純粋な“自分の目”だったとは限らないのかもしれません。
育ってきた中で触れてきた言葉。
褒められたときの感覚。
安心できた振る舞い方。
周りに合わせたほうがうまくいった経験。
比べられる空気の中で、なんとなく覚えてきた緊張。
そういうものが少しずつ混ざりながら、
今の自分を見つめる目になっていることがあります。
だから、区別がつきにくいのだと思います。
これは自分の考えだと思っている。
自分の声として受け取っているつもりでもある。
でも、その中には、
どこかで受け取ってきたまなざしも混ざっているのかもしれません。
ちゃんとしなければ、と思う気持ちも。
休んではいけないような感じも。
足りないところばかりが先に目に入ることも。
気づけば、目的よりも“うまくやれているか”の確認のほうが大きくなってしまうことも。
ばらばらに見えていたものが、
同じひとつの目から来ていたように思えることがあります。
その目は、どこから来たのか
もちろん、
その目がまちがっていると言いたいわけではありません。
それはきっと、
無理にでも合わせるためだったり、
傷つかないようにするためだったり、
ちゃんとしていれば安心できた時間を生き抜くためだったりして、
必要があって身につけてきたものでもあるのだと思います。
だからこそ、強く働くのかもしれません。
簡単には外せないし、
急に消えるものでもないのだと思います。
ただ、
その目が“全部まるごと自分の本音”とは限らないのかもしれない、と
少しだけ思えることがあります。
この目は、どこから来たんだろう。
どうしてこんなに厳しいんだろう。
何を守ろうとして、ここにいるんだろう。
そうやって、
少しだけ外側から眺められる瞬間があると、
苦しさの意味が、ほんの少し変わることがあります。
すぐに楽になるわけではなくても、
責める声とぴったり重なりきらずにいられることがある。
ここまで見てきた
「ちゃんと」の基準も、
失うことへの怖さも、
休めなさも、
足りないところを探してしまう目も、
何のためにやっているのか分からなくなる感覚も、
別々のものではなかったのかもしれません。
ひとつの視線が、
いくつもの形で自分の内側にあらわれていただけなのかもしれません。
そう思えると、
今すぐ何かを変えなくても、
少しだけ見え方が変わることがあります。
私は厳しい人なんだ、ではなく。
いろんな目を、自分の中に住まわせてきたのかもしれない、と。
はっきり分かった、
とまでは言えなくてもいいのだと思います。
ただ、
ここまで苦しかったものが、
少しつながって見える。
そのくらいのところで、
いったん立ち止まってもいいのかもしれません。

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