こうすべき、こうあるべき——母親の呪縛

母親になると、
なぜか周りの目が、急に気になるようになることがあります。

たとえば、何かを決めようとしたとき、
ふと誰かの顔や言葉が浮かんで、立ち止まってしまう。

ちゃんとできているか。
間違っていないか。
これでいいのか。

仕事の場面や、親であること以外の役割では、
そこまで迷わずに考えられていたことなのに、
「母親」という言葉がついた途端、
自分の選択に、余計な確認が増えていくのはなぜだろう。

母親の呪縛は、どこから来るのか

その感覚は、
誰かに押しつけられたもの、というよりも、
善意や心配、愛情の積み重ねから生まれていることが、
多いように感じます。

子どもを大切に思う気持ち。
ちゃんと育てたい、守りたいという思い。
まわりの人の経験や助言、
「こうしたほうがいいよ」という声。

その一つひとつは、
決して悪意から生まれたものではありません。

だからこそ、
母親はそれを簡単に無視できないし、
「気にしなくていい」と割り切ることも、
なかなかできないのだと思います。

気づけば、
誰かの言葉や視線が自分の中に残り続けて、
いつのまにか、
自分で自分を見張るようになっていることもあります。

「ちゃんとしているかな」
「これでいいのかな」
「間違っていないかな」

そうやって、
何かを選ぶたびに立ち止まり、
確認することが増えていく。

周りから直接何かを言われていなくても、
すでに心の中にある“基準”が、
自分を縛ってしまうこともあります。

仕事や、他の役割では、
そこまで慎重にならなくても進めていたことが、
母親になると、
急に重たく感じられるようになる。

それは、
母親が弱いからでも、
考えすぎだからでもありません。
それだけ真剣に向き合っている証だと、
私は思っています。

母親の呪縛は、
なくしたほうがいいもの、
手放すべきもの、
というよりも、
なくそうとしなくても、
手放せなくても、
自分を責める材料にしなくていいものだと、
感じています。

この場所では、
「こうすれば楽になります」と
答えを用意することはしません。

代わりに、
なぜ苦しくなるのか、
どこで自分を責めてしまうのか、
一緒に立ち止まって考えていきます。

ほどけなくてもいい。
揺れたままでもいい。

それでも、
ひとりで抱え込まずに、
考える時間を持てる場所があれば、
選び方は、少しずつ変わっていく。

ばんそうしゃは、
そんな時間に、
そっと並ぶ場所でありたいと思っています。

コメント