「これくらいは、やらなきゃ」
誰かに言われたわけでもないのに、
そう思ってしまう瞬間があります。
部屋の隅が気になったとき。
予定どおりに進まなかったとき。
本当はもう少し休みたいのに、
なぜか落ち着かないとき。
“ちゃんと”できているかどうかを、
自分でそっと採点しているような感覚。
その基準は、
いつからそこにあったのだろう、と
ふと立ち止まることがあります。
育った環境の中で、
自然と身についたものかもしれません。
周囲の大人の言葉。
学校や職場で評価された経験。
「これができると安心」という感覚。
比べたくて比べているわけではなくても、
どこかで見聞きした“普通”が、
静かに積み重なっていく。
そうやって、
少しずつ形づくられてきた基準。
それはきっと、
そのときの自分を守るためのものでもあったはずです。
うまくやることで安心できた。
きちんとすることで、
居場所が揺らがずに済んだ。
“ちゃんと”は、
誰かに認められるためだけでなく、
自分が不安にならないための、
小さな安全装置でもあったのかもしれません。
だから、
それ自体が悪いものだったとは
言いきれないように思います。
むしろ、
そのときの自分には必要だった。
その基準は、今の自分に必要か
その基準は、
今の自分にも、
そのまま必要なのかどうかは、
少しだけ分からなくなることがあります。
昔は安心をくれた基準が、
今は自分を急がせていることもある。
それでも、
すぐに変える必要があるわけではなくて。
ただ、
「ああ、これは昔から持っているものなんだな」
と、
ほんの少し外から眺めてみるだけで、
呼吸がわずかにゆるむことがあります。
この基準は、
誰のものなのだろう。
誰かから受け取ったもの。
自分で選んだもの。
混ざり合って、もう分からなくなっているもの。
全部を手放さなくてもいい。
でも、
少しだけ距離を置いてみたとき、
違って見えるものはあるのかもしれません。
それが必要かどうかを決めるのも、
今すぐではなくていい。
ただ、
基準を“持っている自分”を、
外から眺められる瞬間があるということ。
もし、
その瞬間に気づけたなら。
それだけで、
少しだけ、
肩にのっていた重さが変わることもあるのかもしれません。

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